Sunday, November 30, 2008
モジュール(汎用)化 2
要素を「元素のようなこれ以上分割できないもの」に方向付ける、いわゆる還元的なやり方で考えると、複雑な Q'aida が単純な Na や Dha で置き換えることが可能だし、ソフトウェアプログラミングと同様にスマートなやり方で複雑なものを単純化させることに創造性をつぎ込んだとしても。
A) Shruti, Tanboura などの通奏(層)基底音に bol を方向付ける。
B) 一つの要素のみ Tala を構成する。
A) Shruti, Tanboura などの通奏(層)基底音に bol を方向付ける。
B) 一つの要素のみ Tala を構成する。
モジュール(汎用)化 1
Groove とはそもそも奏者の全ての要素が反映されたものだ。マクロな意味での groove は本来選択不可であり、「曲によって」「ジャンルによって」などで選択することはマクロという層で捉えた場合無意味なことなのではないか。
つまり、主体的に選択するものではなく「そうなってしまう」という類の要素であるということだ。現代において奏者は Poly-morphism を求められているがそれは、要素をモジュール化して分割できるという考えが暗黙に認められているからに他ならない。
先に述べたように、本来全体的なものなのだが groove の意味を狭める(或いは階層を一つ落とす)ことによってモジュール化を可能にし、技術的要素でもって様々な groove を一奏者が実現する。ということである。
つまり、主体的に選択するものではなく「そうなってしまう」という類の要素であるということだ。現代において奏者は Poly-morphism を求められているがそれは、要素をモジュール化して分割できるという考えが暗黙に認められているからに他ならない。
先に述べたように、本来全体的なものなのだが groove の意味を狭める(或いは階層を一つ落とす)ことによってモジュール化を可能にし、技術的要素でもって様々な groove を一奏者が実現する。ということである。
Wednesday, October 22, 2008
電気/電子は音響派の古典だろうか
M氏の演奏を通して改めて自分が「音響」で音楽を構築している事に気づく.
パターンの組み合わせ、配置が音楽を作るのではなく、音の響きがパターンを創るかのようだ.
そう気付くと、自分の立ち位置が非常に簡潔に説明できる.
エレクトロニクスは音響派にとっての古典(クラシック)と捉えている.
パターンの組み合わせ、配置が音楽を作るのではなく、音の響きがパターンを創るかのようだ.
そう気付くと、自分の立ち位置が非常に簡潔に説明できる.
エレクトロニクスは音響派にとっての古典(クラシック)と捉えている.
Monday, September 22, 2008
scope (2)
scope (スコープ)というのは、視野という意味であるが、転じて(認識する)範囲の事を指したり、「限定」「境界」を強く意識させる言葉である.
実はこの scope という概念は今、とても重要であり、様々なアクティビティの背後に常に見え隠れしている.厄介な言葉である.
実はこの scope という概念は今、とても重要であり、様々なアクティビティの背後に常に見え隠れしている.厄介な言葉である.
Tuesday, July 29, 2008
Monday, July 28, 2008
Sunday, April 15, 2007
情報の国
架空の情報上の国があるとする。そこでも音楽が作られる。シルクロードを伝わって、また民族の様々な美意識で取捨選択されて時間とともに音楽が融合されてきた訳だが、この国でも同じように民族それぞれのアルゴリズムで情報の音楽をプロセスしてゆく。そういう国を想像してみた。
Saturday, March 31, 2007
Monday, March 05, 2007
Wednesday, February 28, 2007
近未来
もしあらゆる音楽の音符やパターンがデータ化され、思いついた旋律から即座にさまざまな音楽パターンを生成できたり、そういう時が来たとき(近々でしょうが)、そのときになって初めてようやく人は機械と音楽の関係を相対化できるようになるのではないか、と思う。
自動作曲に社会的な意味があるとすれば、そういうことなのかも知れません。
しかしまあ、そういう事以外にもいろいろなことを面白がるというのは大事でしょう。
自動作曲に社会的な意味があるとすれば、そういうことなのかも知れません。
しかしまあ、そういう事以外にもいろいろなことを面白がるというのは大事でしょう。
Sunday, January 28, 2007
dejav
機械から発せられる音、人の行為による音楽とを比較する。
”音楽とは生音である。音楽は演奏がよい。機械の音はどんなに機械の能力が上がったとしても人による音楽にはかなわない。原音至上。”
まるで以前の民族音楽と西洋クラシックの様だ。以前見たような光景に思える。いまだ何の疑いもなく、人々は機械の音と人間の音楽とを同列に扱っている。明らかに機械の音は、人々の不理解により辱められている。機械は音楽のような形に自らの表現を落とす必要はない。
”音楽とは生音である。音楽は演奏がよい。機械の音はどんなに機械の能力が上がったとしても人による音楽にはかなわない。原音至上。”
まるで以前の民族音楽と西洋クラシックの様だ。以前見たような光景に思える。いまだ何の疑いもなく、人々は機械の音と人間の音楽とを同列に扱っている。明らかに機械の音は、人々の不理解により辱められている。機械は音楽のような形に自らの表現を落とす必要はない。
Wednesday, September 06, 2006
能動性から受動性へ
音楽を聴くという行為は常々変化している。現在巷には様々な音があふれる。人々は様々な音に囲まれている。「音楽を聴く」という行為は一昔前では能動的な行為であったに違いない。しかし、現在の「音楽を聴く」という行為の意味は必ずしもそうとは限らないようである。町では店の拡声器から音楽やアナウンス、メロディが絶え間なく流れ、しかも一つではなく場所によっては同時に何十と「耳にはいる」訳である。飲食店ではBGMが流され、人ごみでは語り声が音楽の様に流れ、携帯電話の着信メロディが同時にいくつも聞こえる。
人々は音に囲まれている。どうやら「音楽を聴く」という行為は「音楽が聴こえる」という意味を内包するようになったようだ。しかもその意味合いがどんどんと強くなってゆく。iPodやmp3プレーヤーによる大量の音楽の一括管理は「音楽が聴こえる」という精神で「音楽を聴く」ことと無縁ではあるまい。音楽は様々なやりかたで人々の脳に届くようになった。昔より自由になった。
だが、自由と危険は背中合わせだ。自由のみを謳歌すると某国のようなド壷にはまるだろう。
人々は音に囲まれている。どうやら「音楽を聴く」という行為は「音楽が聴こえる」という意味を内包するようになったようだ。しかもその意味合いがどんどんと強くなってゆく。iPodやmp3プレーヤーによる大量の音楽の一括管理は「音楽が聴こえる」という精神で「音楽を聴く」ことと無縁ではあるまい。音楽は様々なやりかたで人々の脳に届くようになった。昔より自由になった。
だが、自由と危険は背中合わせだ。自由のみを謳歌すると某国のようなド壷にはまるだろう。
Saturday, August 12, 2006
エレクトロニクスをツールとする
エレクトロニクスをツールとする事は少なくとも音楽に於いてはもう終わっても良いのではないか。エレクトロニクスに如何にしゃべってもらうのか、を考え彼らのしゃべり方を受け入れ彼らと共にしゃべる、と70年代に提唱されていた。が、そのパワーが圧倒的に上がった現在でもそれは受け入れられていないように見受けられる。寧ろ、昔に比べて複雑でブラックボックス化しているが故にそれができづらくなっている状況のようだ。
白塗り
現代音楽家の好んで使用するホワイトやピンクノイズ、正弦、余弦派等のサウンドは舞踏に於ける白塗りの様なものなのだろう。
>暗黒舞踏の白塗りには「かぶきの白塗りの原理に基づく発想」が働いていると考える。つまり、白塗りはかぶきそれの仮面性を全身におよぼすことによって、「肉体否定の一つの表現」「醜悪な肉体の醜悪さの一つの表現」となる。(郡司正勝)
つまり自然界には存在しないが自然界の音を構成している最小の要素であり抽象であるそれらの音は「肉体否定の一つの表現」としての白塗りのように自然の音を否定し、存在しながらも恣意をはなれたあたかも純粋抽象的な存在として振る舞うことができる。
形式的な取扱いが楽な故に乱用される事は舞踏の白塗りと同じであるが。
>暗黒舞踏の白塗りには「かぶきの白塗りの原理に基づく発想」が働いていると考える。つまり、白塗りはかぶきそれの仮面性を全身におよぼすことによって、「肉体否定の一つの表現」「醜悪な肉体の醜悪さの一つの表現」となる。(郡司正勝)
つまり自然界には存在しないが自然界の音を構成している最小の要素であり抽象であるそれらの音は「肉体否定の一つの表現」としての白塗りのように自然の音を否定し、存在しながらも恣意をはなれたあたかも純粋抽象的な存在として振る舞うことができる。
形式的な取扱いが楽な故に乱用される事は舞踏の白塗りと同じであるが。
Wednesday, August 02, 2006
インド文化と科学の関係
ゼロという概念を創りだした民族だと言われる。アラビア数字も西洋にアラビア経由で伝わったのでそう呼ばれるが、源はインドである。西洋に現在のような数字の概念が伝わったのは早くとも10C頃だと言われているようだが、その後西洋は猛烈な速さでそれを吸収し発展させ自然界に概念を拡大した。その過程で急先鋒として産まれてきたのがカメラオブスキュアや遠近法、立体絵画技法、平均率、フーガ、カノン、調性であったり、云々であったり、文化の形成に数学の概念がかなり直接的に関与している。
だがその数学の概念の基礎を作り出したといわれるインド文化にその痕跡が残っていないのは何故か。いや、或は西洋のように直接的な形で関わってゆくのではなく、また別の相で存在しているのだろうか。インドと科学の関係を洗い出そうと思ったきっかけである。
だがその数学の概念の基礎を作り出したといわれるインド文化にその痕跡が残っていないのは何故か。いや、或は西洋のように直接的な形で関わってゆくのではなく、また別の相で存在しているのだろうか。インドと科学の関係を洗い出そうと思ったきっかけである。
Wednesday, July 05, 2006
原音忠実という指向
オーディオにおける原音忠実再現という考え方はどこからくるのだろうか。現代のオーディオ環境においては原音は存在してもそれを忠実に再現するという意義は無い。現在人々にとって耳にする音楽とは90%以上の割合で編集されたものを指す。原音はリアルなものであるが、オーディオ再生というところにおいてはリアリティが無いのである。イデオロギーに方向付けされる時代は終わった。あるのはスーパーフラットな個々の嗜好に基づいた無数の価値観のみなのである。ただ、一方にその反動として原音回帰、生音回帰とみられるムーブメントが近年みられることも確かである。
原音忠実再現を志向する人々には昔からのクラシックファンが多数を占めるようだ。
エレクトロニクスは自然の一部なのである。エレクトロニクスの力を音楽に参加させる事とはエレクトロニクスの演奏が加わると言う事である。エレクトロニクスには彼らなりの演奏の仕方、しゃべり方が有る。原音忠実再現という楽譜のみをエレクトロニクスに演奏させるのはそのあり方としてどうなのだろうか。エレクトロニクスの力を借りてでしか音楽に触れる事ができない現在でこそ、その関係を新たに考えてゆくべきだろう。
エレクトロニクスは鈴虫や蛍と同じように自然として今身の回りに存在し、浄瑠璃やお神楽、民謡と同じように身の回りで音を発する。現代の音楽家にとってもはや日本文化に戻ると言う事は伝統音楽に戻る事ではない。それはエキゾチシズムであり自分の文化であるという錯覚である。私はエレクトロニクスを回帰してゆく自分の文化として提唱する。
原音忠実再現を志向する人々には昔からのクラシックファンが多数を占めるようだ。
エレクトロニクスは自然の一部なのである。エレクトロニクスの力を音楽に参加させる事とはエレクトロニクスの演奏が加わると言う事である。エレクトロニクスには彼らなりの演奏の仕方、しゃべり方が有る。原音忠実再現という楽譜のみをエレクトロニクスに演奏させるのはそのあり方としてどうなのだろうか。エレクトロニクスの力を借りてでしか音楽に触れる事ができない現在でこそ、その関係を新たに考えてゆくべきだろう。
エレクトロニクスは鈴虫や蛍と同じように自然として今身の回りに存在し、浄瑠璃やお神楽、民謡と同じように身の回りで音を発する。現代の音楽家にとってもはや日本文化に戻ると言う事は伝統音楽に戻る事ではない。それはエキゾチシズムであり自分の文化であるという錯覚である。私はエレクトロニクスを回帰してゆく自分の文化として提唱する。
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