Wednesday, August 05, 2009

「知っている」と「できる」の感覚について

「知っている」と「できる」は、当たり前のことだが、かなり異なる.同じ対象に対するかなり異なるアプローチであるのだが、ややもすれば同じことの様に捉えてしまう.
「知っている」<=>「できる」
と.

スポーツや楽器演奏など身体性が大きな範疇を占める事においては、当たり前のことであり、寧ろその2つを異なる要素として相補的に高める事が、大きな要因となる.

しかしながら(敢えて)、今は明らかに「知っている」に様々な環境が偏重している.
要するに IT のおかげで様々な事を「知りやすい」のだ.「知りやすい」が故に「できる」事を非常に大切にしなければならない.

どんなベーシックなことでも良い.「できる」事について注意を払う事である.

何度も言うが、「知っている」ことは「できる」ことと違う.

Thursday, April 23, 2009

モデリングについて

モデリング、というのは本質的に現実に間接的にしか関われない。
ソフトウェアの様に仮想的に現実との関係を持つもの、よりもさらに階層が抽象的である。
本質的にユーザーにとっては全く役に立たないものなのである。
それ故に、時にエンドユーザーが手にするものよりも思想が剥き出しである。オブラートに包まれていない。ユーザービリティは限りなく無い。
全く役に立たない、でありながら、思想が剥き出しである、というところは美術に似ているのかもしれない。

Thursday, April 16, 2009

Untitled

現在の技術ではセンシングできないような感覚があるのも事実だろう.
しかし、センシングできるものは、その分解能は人間の感覚神経の最小単位を超えているだろう.24ビットフルスケールでの1ビットをヒトはどれほど知覚できるのだろうか.

要は、分解能や正確性ではない、ということだ.入力のルーズさに対する許容範囲という点に於いて、デジタルシステムは根本的な欠陥がある.

ヒトにより時間・ピッチなど音楽要素は激しく揺らぐ.その揺らぎを、肉体のルーズさをデジタルシステムは許容できない.揺らぎという要素さえ、厳密に記述する必要がある.系の矛盾である.

ルーズさを要素としなければよい、というのは1つの答えだが、残念ながら音楽では揺らぎが無視できない要素なのだ.
Gould の何倍も正確な、速い演奏が可能なのだがそれは恐らく意味のないことだろう.とすると、Gould の演奏は正確性やテンポという要素以外にもなんらかの意味のある要素があるということになる.

Tuesday, March 24, 2009

周辺から

新しいもの、はどこから生まれるのだろうか.
様々に(まるで針の山の各先端のように)特化した専門性の先端から生まれることは確かだろう.それが、針の先端を更に伸ばしてゆくのだろう.
しかしはたして、横断的なもの、は先端から生まれるだろうか.先端から周辺を眺めてリベラルな横断的な視点を持ち続けることはできるだろうか.
往々にして裾野から新しいものが生まれるのは、そこからはそれぞれの針の山への道が「リベラルな視点で」見えるからだろうか.