Wednesday, September 06, 2006

能動性から受動性へ

 音楽を聴くという行為は常々変化している。現在巷には様々な音があふれる。人々は様々な音に囲まれている。「音楽を聴く」という行為は一昔前では能動的な行為であったに違いない。しかし、現在の「音楽を聴く」という行為の意味は必ずしもそうとは限らないようである。町では店の拡声器から音楽やアナウンス、メロディが絶え間なく流れ、しかも一つではなく場所によっては同時に何十と「耳にはいる」訳である。飲食店ではBGMが流され、人ごみでは語り声が音楽の様に流れ、携帯電話の着信メロディが同時にいくつも聞こえる。
 人々は音に囲まれている。どうやら「音楽を聴く」という行為は「音楽が聴こえる」という意味を内包するようになったようだ。しかもその意味合いがどんどんと強くなってゆく。iPodやmp3プレーヤーによる大量の音楽の一括管理は「音楽が聴こえる」という精神で「音楽を聴く」ことと無縁ではあるまい。音楽は様々なやりかたで人々の脳に届くようになった。昔より自由になった。
 だが、自由と危険は背中合わせだ。自由のみを謳歌すると某国のようなド壷にはまるだろう。

Saturday, August 12, 2006

エレクトロニクスをツールとする

エレクトロニクスをツールとする事は少なくとも音楽に於いてはもう終わっても良いのではないか。エレクトロニクスに如何にしゃべってもらうのか、を考え彼らのしゃべり方を受け入れ彼らと共にしゃべる、と70年代に提唱されていた。が、そのパワーが圧倒的に上がった現在でもそれは受け入れられていないように見受けられる。寧ろ、昔に比べて複雑でブラックボックス化しているが故にそれができづらくなっている状況のようだ。

白塗り

現代音楽家の好んで使用するホワイトやピンクノイズ、正弦、余弦派等のサウンドは舞踏に於ける白塗りの様なものなのだろう。

>暗黒舞踏の白塗りには「かぶきの白塗りの原理に基づく発想」が働いていると考える。つまり、白塗りはかぶきそれの仮面性を全身におよぼすことによって、「肉体否定の一つの表現」「醜悪な肉体の醜悪さの一つの表現」となる。(郡司正勝)

つまり自然界には存在しないが自然界の音を構成している最小の要素であり抽象であるそれらの音は「肉体否定の一つの表現」としての白塗りのように自然の音を否定し、存在しながらも恣意をはなれたあたかも純粋抽象的な存在として振る舞うことができる。

形式的な取扱いが楽な故に乱用される事は舞踏の白塗りと同じであるが。

Wednesday, August 02, 2006

インド文化と科学の関係

ゼロという概念を創りだした民族だと言われる。アラビア数字も西洋にアラビア経由で伝わったのでそう呼ばれるが、源はインドである。西洋に現在のような数字の概念が伝わったのは早くとも10C頃だと言われているようだが、その後西洋は猛烈な速さでそれを吸収し発展させ自然界に概念を拡大した。その過程で急先鋒として産まれてきたのがカメラオブスキュアや遠近法、立体絵画技法、平均率、フーガ、カノン、調性であったり、云々であったり、文化の形成に数学の概念がかなり直接的に関与している。
だがその数学の概念の基礎を作り出したといわれるインド文化にその痕跡が残っていないのは何故か。いや、或は西洋のように直接的な形で関わってゆくのではなく、また別の相で存在しているのだろうか。インドと科学の関係を洗い出そうと思ったきっかけである。

Wednesday, July 05, 2006

原音忠実という指向

 オーディオにおける原音忠実再現という考え方はどこからくるのだろうか。現代のオーディオ環境においては原音は存在してもそれを忠実に再現するという意義は無い。現在人々にとって耳にする音楽とは90%以上の割合で編集されたものを指す。原音はリアルなものであるが、オーディオ再生というところにおいてはリアリティが無いのである。イデオロギーに方向付けされる時代は終わった。あるのはスーパーフラットな個々の嗜好に基づいた無数の価値観のみなのである。ただ、一方にその反動として原音回帰、生音回帰とみられるムーブメントが近年みられることも確かである。

原音忠実再現を志向する人々には昔からのクラシックファンが多数を占めるようだ。

 エレクトロニクスは自然の一部なのである。エレクトロニクスの力を音楽に参加させる事とはエレクトロニクスの演奏が加わると言う事である。エレクトロニクスには彼らなりの演奏の仕方、しゃべり方が有る。原音忠実再現という楽譜のみをエレクトロニクスに演奏させるのはそのあり方としてどうなのだろうか。エレクトロニクスの力を借りてでしか音楽に触れる事ができない現在でこそ、その関係を新たに考えてゆくべきだろう。
 エレクトロニクスは鈴虫や蛍と同じように自然として今身の回りに存在し、浄瑠璃やお神楽、民謡と同じように身の回りで音を発する。現代の音楽家にとってもはや日本文化に戻ると言う事は伝統音楽に戻る事ではない。それはエキゾチシズムであり自分の文化であるという錯覚である。私はエレクトロニクスを回帰してゆく自分の文化として提唱する。

Tuesday, June 06, 2006

表出する行為

世界観を表出するという行為が対象になるが、その媒体がシンフォニーである場合もあればラーガである場合もある。サウンドそのものである場合もあればサウンドを生成するシステムという場合もある。1bit である場合もあれば歌である場合もある。要はそれだけなのだが、その行為を現代芸術という摩訶不思議な領域にプロットしようとすると、非常に込み入った話になる。まあただ世界観を表出するという行為はおそらく非常に原初的な生命活動の一部であろうから、人々が取捨選択して芸術という領域に持ってくるのだろう。

Monday, June 05, 2006

難解な中に

コンセプトの展開をBという値を用いて行うこと。Bは最大公約数である必要はない。一人以上で行うならば最小公倍数である必要がある。以上。

Sunday, May 21, 2006

虚像

S氏の作品が立体的な変貌を遂げた。やや平面的な昨年から前に張り出した立体的な要素と重力の要素が立ち現れてきた。それとともに作品に対する我々の目線も作品そのものから白壁に投影される陰に移って行った。作品そのものに対峙すると細部、その作品の構成要素にエネルギーが注がれる。彼のように廃材を使う作品はなおさらだ。しかし、陰は明暗質感はあるとはいえ均一な存在でありそれゆえ、その陰全体と対峙する事となる。私は実物の写像を通して初めて実物の全体と対峙する事ができた。

陰は実物の写像であり、実物の写像が陰である。別のものでありまた同じものである。ラーガの写像はシュルティであり、シュルティはラーガの写像である。別のものであると同時に同じものである。そういうサウンドをこの作品は受け入れてくれるだろうか。

Thursday, May 11, 2006

脱 記憶デバイス 操作

何の事は無い、音を扱う≒ Memory 操作 に感覚が変容しただけなのだ。100年前は 音を扱う≒時間を扱う であり、全てはそれに基づいて設計されていただけなのだ。西洋クラシックにおいては音を扱うということは時間軸に沿って物語を創る事でありそれゆえ記譜が制作をコンセプト面からも強烈に支えてきた。音を扱う事は時間の中で行われていたのだからこそ、ソルフェージュ等を駆使し頭の中で仮想的な時間軸を設定し現実の時間から離れる技術も創られた。しかし音は時間に従って物語展開されるというクラシック専売特許のような技術は皮肉にも彼らが発展させたサイエンスによってもろく打ち崩された。
音を扱う≒mEmORY操作になったのだ。そこに実感できるリアリティとしての時間は希薄だ。クラシックの専売技術は通用しない。新たなパラダイムでの物語を展開する感覚と技術が必要なのだ。クラシックが絶望に陥るとともにすがるようにすり寄って行ったのが彼らとは全く違う時間を扱う技術と違うパラダイムで物語を展開する民族音楽の膝元だった。
しかし、それは根本的な解決では無い、ただのその場しのぎにしか過ぎなかった。民族音楽にしても状況は同じである。結局 Memory 操作から逃れる事はできない。エレクトロニカは構造的には伝統音楽と比べるととても単純なものだ。だが、彼らはクラシックの人間には理解できない「別の」物語を語るだけだ。

Sunday, May 07, 2006

untitled

人が音を聴くという行為は客観的な事象だという事ができるだろう。なぜならばおそらく大多数の人々の知覚器官は生理的にほぼ同じ機能を持つからである。だが、人が音楽を聴くという行為は1%のよどみもない主観的な事象である。なぜなら音楽はその人の心の中に、心が形作るものであるからだ。心はその人の過去に根ざした経験が形作る。誰一人として全く同じ過去や経験を持たないのと同じように、たとえ全く同じ状況で同じ音を聞く場に居合わせたとしても、誰一人として同じ音楽を聴く事はできない。
音楽家は音楽が人々の主観から離れては存在し得ないということを身をもって感じているし、納得もしている。しかし、彼らは普遍的な音楽を求め彷徨う。主観も極まれば普遍を獲得するかもしれないという希望と絶望をもってしてドンキホーテのように疾走する。
その矛盾、心の中の Bug も音楽なのではないか。と思う。

Saturday, April 29, 2006

untitled

結局人間に依って打ち鳴らされるか、それとも人の力に依らずに打ち鳴らされるのか、そこに収斂されてゆくのである。いかなる形而上的な思考や体験も「音」を扱う上においては「必ず」形而下において発現される。そこに音を扱うことの一つの妙がある。
また、インスタレーションと演奏の境目も大まかにはこれで線を引けるだろう。

Saturday, April 15, 2006

ドローンは共通意識になりうるか

情動的メロディ、グルーヴィーなビート、奇麗な(?)な音と同じようにドローンは共通意識になることができるのか。
情動的メロディやグルーヴィーなビートは人々の共通の美意識として初めから有るのだろう(敢えて断定するが)。そこに価値観を合わせてゆく音楽は幸いだ。だが、私は新たな共通意識としてドローンの存在を提唱したい。なぜならば、私はグルーヴ至上主義でもないしモーツァルトも好きになれない。ドローンを感覚の中心に据えることが可能だからだ。

Friday, April 07, 2006

improvisation

improvisation などというものは所詮結局は演奏者側の個人的な理由からはじまったのである。同じことを何回も何百回も繰り返すことは誰しも面白くないことなのである。繰り返しながらも毎回新たな発見があるように演奏してゆくようになるのは至極当然の行為だ。辻音楽師の様に日々同じ面子で同じ行為を繰り返せば繰り返すほど彼らの中にはある共通のシステムが生まれ、その中での improvisation を楽しむようになるし、そこに飽きるとまた更に新たなシステムを加えてゆく。それを繰り返して複雑化してゆくのである。そうして極度(のように見える)に複雑化されたシステムを擁するのが印度音楽であるわけだが、この場合は源泉の単純なシステムはほとんど隠れてしまいシステムのためのシステムも構築されたりしたがためにやはり単純に高度な improvisation とは言いにくい。しかし、でもやはりエッセンスはシンプルでありまた饒舌でないはずである。
improvisation は要するに演奏者サイドの必要性から生じたもので、そこに高尚な思想を読み解くのはいいことではあるが、その水源の場所を忘れるほどにのめり込むと迷うことになる。こと印度音楽の様に複雑化された音楽では迷いやすい。が、一度くらいは迷ってみてもよいのではないかとも思う。

Tuesday, April 04, 2006

shamanistic aspect of a sound installation

>A :
それではそのsound installationというものは20世紀に初めて出現した(DSPがそうであるように)ものではないという訳ですね。
>B :
はい、少なくとも私はそうとらえています。というのもまず、sound art という言葉が歴史上(文献上というのが正しいですが)初めて出現したのは17世紀の幻想科学者/イエズス会宣教師アタナシウス・キルヒャーによってでした。勿論彼は現代的な意味でのアートとして音を扱ったのではなく、ギリシアのピタゴラスのように世界を現す抽象的なモチーフと考えていたようです。「普遍音楽」という著書のタイトルにもそれが伺えます。更に教会の壁に螺旋状の筒穴を開け(音は螺旋状に伝わると信じられていた)外部の音を教会の中に導き入れたり、逆にある場所の音を別の場所に転送するようなことを宗教的雰囲気の強化のための効果音として用いていたようです。
>A :
なるほど、以前ある場所の音を電波で飛ばし美術館の部屋の中に持ってくるという作品がありましたが、そういうことがアートとは別の文脈でしかも3,400年も昔にされていた訳ですね。
>B :
ええ勿論動機や目的は違うでしょうが。しかし情報の極度に少ない昔の人間の想像力でその仕掛けを聞いた人々の驚きようはすごかったでしょうし、そのお驚きを宗教的な力に変えて行くのはたやすかったでしょう。微妙に異端的なものさえ感じます。また、それ以前にも例えば日本庭園のししおどしであったり、ギリシア時代から存在しているエオリアンハープ(風で共鳴する弦様の共鳴体)など、その「場」に音(サウンド)を設置する(インストール)というような意味合いで用いられたものは世界中に存在します。ただ、現在のように音楽という範疇にはそれらの存在は入っていません。音楽は人の手で意思をもって打ち鳴らされるものに対して、それらの存在は外部の作用すなわちそれを取り囲む森羅万象によって動かされるものでありそれ故に非常に shamanistic な扱いを受けていたのではないかと思います。現在、いわゆるsound installationを行う美術家の方の中には科学技術を用いながらもある意味非常に水墨画的であり森羅万象を意識させるような作品が多々あります。小さなスピーカー群を展示場に偏在させるユリウスなどはその典型です。また、コンピュータプログラムを用いてインスタレーションを制御する方法もよく見られますが、そのプログラムは外部を認識しサウンド制御するために用いられたり、自然的なランダムな値を発生させそれをサウンド制御に用いたり、非森羅万象的なコンピュータを森羅万象的な動きをするものと簡略化してコンパクト化してとらえ使用しているようです(それ自体は様々な問題をはらんだ行為ですし、それはまた別のテーマなので詳しくは掘り下げませんが)。
とにかく、私が申したいのはsound installationというのは今まで森羅万象によって作用されshamanistic な所に属していましたが、それが科学技術の発達とともにその「森羅万象によって作用される」という部分が科学技術にとって代わりそれとともに音楽という所に移り入ってきたのです。それは人間の「外部で」あった森羅万象から人間に「よって創りだされた」科学技術にsound installationの能動的な部分が取って代わったということです。言い方を変えれば人間ではない外部のものに演奏されていた存在が人間に演奏されるようになったということであり、ですから「音楽」という所にsound installationが存在することが許されるようになったという訳です。
>A :

___抜粋

Friday, March 10, 2006

recycle~

 録音技術が登場し音と演奏者と演奏されている場所が切り離されてから第三の音楽はスタートした。(簡易的に第一の音楽を西洋音楽/第二の音楽をその他の地域の音楽、とした)。20世紀後期よりデジタル概念を音に適用し、人の音楽に対する認識は著しく変化してきた(音楽そのものの変化はテクノロジーによって変化したとはいえ、人の内面で行われる認識の変化ほど大きくはあるまい。もちろん単純に比較などはできるわけもないが、ただ人は認識して初めて音楽をとらえうるとすれば認識が変化するということは音楽そのものも変化するということである)。要するに音楽は人にとってとても近いものとなり、音楽というものは演奏者や場所などとは関係なくどこそこでもあたかも空気のように存在していると錯覚できるまでになったということである(音は地球上では空気を媒体としているので、まあある意味あたってはいる)。
 データとしての音楽は拡散して均質なものとして存在するようになる。演奏者と場所とから切り離された音楽はここにきて初めて「垂れ流される」という状況に直面した。BGM として流され続け、騒音からのクッションとして流され続ける。無音という概念は楽譜上にしか存在しなかったが、ここにきて「普段空間を埋めている音楽が存在しない」という状況としての無音(世界は無音であるはずがない)という概念が人の中に登場する。ipod などの登場で音楽はさらにいっそう垂れ流しという性格を押し進めた。iPod や iTune のインターフェースや操作コマンドは、もはや音楽を垂れ流すものとして扱う機能しかもたない。スマートフォルダやカテゴライズ機能によって大量の音楽を分類し振り分け、シャッフルなどという再生コマンドによると音楽はランダムにピックアップされ永遠に垂れ流し続ける。普通の再生すらある分類された集合に対しておこない、膨大なアーカイブの中から特定の曲を探し出して再生するという目的の操作性は薄弱だ。
 磁気テープやレコードなどはその過渡期に現れた非常に面白い性質をもつ媒体だ。19世紀後半に第三の音楽が産まれ今現在のようなデータとしての音楽に成長を遂げるのは必然的なことでありまた、そうなるべく産まれたのだろう。磁気テープやレコードなどには成熟しきっていない非常に微妙な性質があるのではないかと思う。音と媒体と時間が不可分に結びついている。一種のデータでありながらそのキャリアから離れては存在し得ない。そこには演奏者、場所、音楽の三者の完全に切り離されていない不完全な状態が現れているように思う。
磁気テープは時間を定着させる。音楽は磁気テープに固定(enbed)される。垂れ流された音はその間(duration)回転運動を続けるエンドレスな磁気テープによって回収・定着される。