Friday, March 10, 2006

recycle~

 録音技術が登場し音と演奏者と演奏されている場所が切り離されてから第三の音楽はスタートした。(簡易的に第一の音楽を西洋音楽/第二の音楽をその他の地域の音楽、とした)。20世紀後期よりデジタル概念を音に適用し、人の音楽に対する認識は著しく変化してきた(音楽そのものの変化はテクノロジーによって変化したとはいえ、人の内面で行われる認識の変化ほど大きくはあるまい。もちろん単純に比較などはできるわけもないが、ただ人は認識して初めて音楽をとらえうるとすれば認識が変化するということは音楽そのものも変化するということである)。要するに音楽は人にとってとても近いものとなり、音楽というものは演奏者や場所などとは関係なくどこそこでもあたかも空気のように存在していると錯覚できるまでになったということである(音は地球上では空気を媒体としているので、まあある意味あたってはいる)。
 データとしての音楽は拡散して均質なものとして存在するようになる。演奏者と場所とから切り離された音楽はここにきて初めて「垂れ流される」という状況に直面した。BGM として流され続け、騒音からのクッションとして流され続ける。無音という概念は楽譜上にしか存在しなかったが、ここにきて「普段空間を埋めている音楽が存在しない」という状況としての無音(世界は無音であるはずがない)という概念が人の中に登場する。ipod などの登場で音楽はさらにいっそう垂れ流しという性格を押し進めた。iPod や iTune のインターフェースや操作コマンドは、もはや音楽を垂れ流すものとして扱う機能しかもたない。スマートフォルダやカテゴライズ機能によって大量の音楽を分類し振り分け、シャッフルなどという再生コマンドによると音楽はランダムにピックアップされ永遠に垂れ流し続ける。普通の再生すらある分類された集合に対しておこない、膨大なアーカイブの中から特定の曲を探し出して再生するという目的の操作性は薄弱だ。
 磁気テープやレコードなどはその過渡期に現れた非常に面白い性質をもつ媒体だ。19世紀後半に第三の音楽が産まれ今現在のようなデータとしての音楽に成長を遂げるのは必然的なことでありまた、そうなるべく産まれたのだろう。磁気テープやレコードなどには成熟しきっていない非常に微妙な性質があるのではないかと思う。音と媒体と時間が不可分に結びついている。一種のデータでありながらそのキャリアから離れては存在し得ない。そこには演奏者、場所、音楽の三者の完全に切り離されていない不完全な状態が現れているように思う。
磁気テープは時間を定着させる。音楽は磁気テープに固定(enbed)される。垂れ流された音はその間(duration)回転運動を続けるエンドレスな磁気テープによって回収・定着される。

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