Saturday, October 29, 2005

構造と構造の狭間

カットとカット[ scene と scene (シーンとシーン)] の切り替わるところに映画の命が吹き込まれる(黒澤明/1996?年北野武との対談にて)。
(音楽においてだけではなく)ある一定の構造と次の構造の移り変わる刹那、においてのみ存在する命がある。
構造と構造の狭間、に命が吹き込まれるとしたら、構造を変化させることそのこと自体を目的としたサウンド(そのものは何ら意味性や構造性を持たない存在であっても)も存在している。と思う。

他者(事象、事物を含む)との関係性

他者といかにして関わってゆくか。それはその人の生成するスタイルや生成するものに非常にクリティカルな影響を与える。他者と如何に存在してゆくかは如何にして受け入れてゆくか、どの程度受け入れるのか、どの次元までを見据えるのか、更には世界と如何に関係を持つかいまで広がってゆく。音楽も所詮他者とどうかかわって行くかなのである。

Thursday, October 27, 2005

部品について

機材を製作していると個々の部品が音を作っている気がしてくる。パーツが演奏する。もちろん楽譜を演奏する訳が無いが、彼らなりのやりかたで演奏をしているのである。演奏家、特にクラシックの演奏家は楽譜をインプットし演奏をアウトプットする。演奏家内部の処理がその人を決定づける。それと大差はない。サウンドをインプットし、個々のパーツなりの処理をし、アウトプットする。私はただ、素材を入れるという動作をするだけである。パーツにも命があるなどとたわ事を言うつもりは全くないが、ただ、彼らにも演奏と同じようにサウンドを処理する能力があるという事実だけは忘れないでいたい。

Wednesday, October 26, 2005

日常をテーマとする

日常◁をテーマとする。日常に△を見る。音楽には、日常から離れたところに連れていく性質を持っていると思う。日常をテーマとする事で非日常に連れていく方向に力が作用するとしたら、それはなんだろう、危険な匂いもする。日常からスタートする、その事は向かって行く方向にどう作用するのだろうか。音楽が非日常を目的とするなら、音楽的手法を用いて日常からスタートするのは、どうもよろしくないという気がする。もし日常からスタートするなら非音楽的な道をとるか、あるいは音楽的な道を通り非日常を目的としない、ような方法があるのではないか、と思う事があった。

Tuesday, October 11, 2005

記号としての Tabla bol

タブラのサウンドは口唱歌となって記号へと還元されてゆく。最小単位の記号としてそれぞれの音色を区別する記号(dha.. dhin.. tin.. tete.. etc.)が選ばれる。その最小単位(以下一次記号と略す)を組み合わせる事でより高次の記号群を扱う事になる。例えば母音と子音を組み合わせて単語を形作る一般的な言語のように。
最小単位の記号を組み合わせる事でできる記号群(言語で単語のような存在。以下二次記号と略す)は無数に存在し、それぞれが独自のサウンドのニュアンスを持ち、そしてその固有のニュアンスを保った状態でのヴァリエーションを持つ。具体的にはその記号群は Q'aida や Rela などのカテゴリーに分類されている。
さらにその二次記号は(印度音楽上の)文法に則って自由に組み合わされ(単語を組み合わせて文を作るように)より高次の記号(三次記号と略す)となる。二次記号を組織し参じ記号を生成する際に用いられる文法がいわゆる印度音楽でのリズム理論ターラと呼ばれる文法である。
また、それ以外にも俳句や短歌などに相当するかのような Tukra.. chakkardar.. 等の種類の三次記号も存在する。それはターラ文法に則った文というよりもむしろ記号の数や歯切れの良さ、要素を組み合わせる事でできる美、などを決まった枠の中にインストールしたもので、文法を離れて存在する。

タブラというのは結局如何に記号を組み合わせて魅力的な文を作ってゆくのか、というポイントに集約される。

lost chirdren

私たちには失ったものに対する記憶が残っているのか。憧れか。失った感覚はテクノロジーでは取り戻されるはずは無い。ニューエイジ思想とは失ったものを取り戻そうとするものに他ならないのか。ニューエイジに感じるある種の嫌悪感、そして畏怖感。ニューエイジ思想によってしか失った感覚は翻訳され得ないのか。失ったものはテクノロジーで得るものよりも価値があったように感じる。だからこそ、失ったものに対する挑戦はやめてはならない。私たちは今手にあるすべてのものを総動員して過去の記憶と戦う。
三角形を取り戻すのは過去からのみではない。未来からも三角形を取り戻す事ができるはずだ。