Saturday, April 29, 2006

untitled

結局人間に依って打ち鳴らされるか、それとも人の力に依らずに打ち鳴らされるのか、そこに収斂されてゆくのである。いかなる形而上的な思考や体験も「音」を扱う上においては「必ず」形而下において発現される。そこに音を扱うことの一つの妙がある。
また、インスタレーションと演奏の境目も大まかにはこれで線を引けるだろう。

Saturday, April 15, 2006

ドローンは共通意識になりうるか

情動的メロディ、グルーヴィーなビート、奇麗な(?)な音と同じようにドローンは共通意識になることができるのか。
情動的メロディやグルーヴィーなビートは人々の共通の美意識として初めから有るのだろう(敢えて断定するが)。そこに価値観を合わせてゆく音楽は幸いだ。だが、私は新たな共通意識としてドローンの存在を提唱したい。なぜならば、私はグルーヴ至上主義でもないしモーツァルトも好きになれない。ドローンを感覚の中心に据えることが可能だからだ。

Friday, April 07, 2006

improvisation

improvisation などというものは所詮結局は演奏者側の個人的な理由からはじまったのである。同じことを何回も何百回も繰り返すことは誰しも面白くないことなのである。繰り返しながらも毎回新たな発見があるように演奏してゆくようになるのは至極当然の行為だ。辻音楽師の様に日々同じ面子で同じ行為を繰り返せば繰り返すほど彼らの中にはある共通のシステムが生まれ、その中での improvisation を楽しむようになるし、そこに飽きるとまた更に新たなシステムを加えてゆく。それを繰り返して複雑化してゆくのである。そうして極度(のように見える)に複雑化されたシステムを擁するのが印度音楽であるわけだが、この場合は源泉の単純なシステムはほとんど隠れてしまいシステムのためのシステムも構築されたりしたがためにやはり単純に高度な improvisation とは言いにくい。しかし、でもやはりエッセンスはシンプルでありまた饒舌でないはずである。
improvisation は要するに演奏者サイドの必要性から生じたもので、そこに高尚な思想を読み解くのはいいことではあるが、その水源の場所を忘れるほどにのめり込むと迷うことになる。こと印度音楽の様に複雑化された音楽では迷いやすい。が、一度くらいは迷ってみてもよいのではないかとも思う。

Tuesday, April 04, 2006

shamanistic aspect of a sound installation

>A :
それではそのsound installationというものは20世紀に初めて出現した(DSPがそうであるように)ものではないという訳ですね。
>B :
はい、少なくとも私はそうとらえています。というのもまず、sound art という言葉が歴史上(文献上というのが正しいですが)初めて出現したのは17世紀の幻想科学者/イエズス会宣教師アタナシウス・キルヒャーによってでした。勿論彼は現代的な意味でのアートとして音を扱ったのではなく、ギリシアのピタゴラスのように世界を現す抽象的なモチーフと考えていたようです。「普遍音楽」という著書のタイトルにもそれが伺えます。更に教会の壁に螺旋状の筒穴を開け(音は螺旋状に伝わると信じられていた)外部の音を教会の中に導き入れたり、逆にある場所の音を別の場所に転送するようなことを宗教的雰囲気の強化のための効果音として用いていたようです。
>A :
なるほど、以前ある場所の音を電波で飛ばし美術館の部屋の中に持ってくるという作品がありましたが、そういうことがアートとは別の文脈でしかも3,400年も昔にされていた訳ですね。
>B :
ええ勿論動機や目的は違うでしょうが。しかし情報の極度に少ない昔の人間の想像力でその仕掛けを聞いた人々の驚きようはすごかったでしょうし、そのお驚きを宗教的な力に変えて行くのはたやすかったでしょう。微妙に異端的なものさえ感じます。また、それ以前にも例えば日本庭園のししおどしであったり、ギリシア時代から存在しているエオリアンハープ(風で共鳴する弦様の共鳴体)など、その「場」に音(サウンド)を設置する(インストール)というような意味合いで用いられたものは世界中に存在します。ただ、現在のように音楽という範疇にはそれらの存在は入っていません。音楽は人の手で意思をもって打ち鳴らされるものに対して、それらの存在は外部の作用すなわちそれを取り囲む森羅万象によって動かされるものでありそれ故に非常に shamanistic な扱いを受けていたのではないかと思います。現在、いわゆるsound installationを行う美術家の方の中には科学技術を用いながらもある意味非常に水墨画的であり森羅万象を意識させるような作品が多々あります。小さなスピーカー群を展示場に偏在させるユリウスなどはその典型です。また、コンピュータプログラムを用いてインスタレーションを制御する方法もよく見られますが、そのプログラムは外部を認識しサウンド制御するために用いられたり、自然的なランダムな値を発生させそれをサウンド制御に用いたり、非森羅万象的なコンピュータを森羅万象的な動きをするものと簡略化してコンパクト化してとらえ使用しているようです(それ自体は様々な問題をはらんだ行為ですし、それはまた別のテーマなので詳しくは掘り下げませんが)。
とにかく、私が申したいのはsound installationというのは今まで森羅万象によって作用されshamanistic な所に属していましたが、それが科学技術の発達とともにその「森羅万象によって作用される」という部分が科学技術にとって代わりそれとともに音楽という所に移り入ってきたのです。それは人間の「外部で」あった森羅万象から人間に「よって創りだされた」科学技術にsound installationの能動的な部分が取って代わったということです。言い方を変えれば人間ではない外部のものに演奏されていた存在が人間に演奏されるようになったということであり、ですから「音楽」という所にsound installationが存在することが許されるようになったという訳です。
>A :

___抜粋