Sunday, May 21, 2006

虚像

S氏の作品が立体的な変貌を遂げた。やや平面的な昨年から前に張り出した立体的な要素と重力の要素が立ち現れてきた。それとともに作品に対する我々の目線も作品そのものから白壁に投影される陰に移って行った。作品そのものに対峙すると細部、その作品の構成要素にエネルギーが注がれる。彼のように廃材を使う作品はなおさらだ。しかし、陰は明暗質感はあるとはいえ均一な存在でありそれゆえ、その陰全体と対峙する事となる。私は実物の写像を通して初めて実物の全体と対峙する事ができた。

陰は実物の写像であり、実物の写像が陰である。別のものでありまた同じものである。ラーガの写像はシュルティであり、シュルティはラーガの写像である。別のものであると同時に同じものである。そういうサウンドをこの作品は受け入れてくれるだろうか。

Thursday, May 11, 2006

脱 記憶デバイス 操作

何の事は無い、音を扱う≒ Memory 操作 に感覚が変容しただけなのだ。100年前は 音を扱う≒時間を扱う であり、全てはそれに基づいて設計されていただけなのだ。西洋クラシックにおいては音を扱うということは時間軸に沿って物語を創る事でありそれゆえ記譜が制作をコンセプト面からも強烈に支えてきた。音を扱う事は時間の中で行われていたのだからこそ、ソルフェージュ等を駆使し頭の中で仮想的な時間軸を設定し現実の時間から離れる技術も創られた。しかし音は時間に従って物語展開されるというクラシック専売特許のような技術は皮肉にも彼らが発展させたサイエンスによってもろく打ち崩された。
音を扱う≒mEmORY操作になったのだ。そこに実感できるリアリティとしての時間は希薄だ。クラシックの専売技術は通用しない。新たなパラダイムでの物語を展開する感覚と技術が必要なのだ。クラシックが絶望に陥るとともにすがるようにすり寄って行ったのが彼らとは全く違う時間を扱う技術と違うパラダイムで物語を展開する民族音楽の膝元だった。
しかし、それは根本的な解決では無い、ただのその場しのぎにしか過ぎなかった。民族音楽にしても状況は同じである。結局 Memory 操作から逃れる事はできない。エレクトロニカは構造的には伝統音楽と比べるととても単純なものだ。だが、彼らはクラシックの人間には理解できない「別の」物語を語るだけだ。

Sunday, May 07, 2006

untitled

人が音を聴くという行為は客観的な事象だという事ができるだろう。なぜならばおそらく大多数の人々の知覚器官は生理的にほぼ同じ機能を持つからである。だが、人が音楽を聴くという行為は1%のよどみもない主観的な事象である。なぜなら音楽はその人の心の中に、心が形作るものであるからだ。心はその人の過去に根ざした経験が形作る。誰一人として全く同じ過去や経験を持たないのと同じように、たとえ全く同じ状況で同じ音を聞く場に居合わせたとしても、誰一人として同じ音楽を聴く事はできない。
音楽家は音楽が人々の主観から離れては存在し得ないということを身をもって感じているし、納得もしている。しかし、彼らは普遍的な音楽を求め彷徨う。主観も極まれば普遍を獲得するかもしれないという希望と絶望をもってしてドンキホーテのように疾走する。
その矛盾、心の中の Bug も音楽なのではないか。と思う。