Thursday, May 11, 2006

脱 記憶デバイス 操作

何の事は無い、音を扱う≒ Memory 操作 に感覚が変容しただけなのだ。100年前は 音を扱う≒時間を扱う であり、全てはそれに基づいて設計されていただけなのだ。西洋クラシックにおいては音を扱うということは時間軸に沿って物語を創る事でありそれゆえ記譜が制作をコンセプト面からも強烈に支えてきた。音を扱う事は時間の中で行われていたのだからこそ、ソルフェージュ等を駆使し頭の中で仮想的な時間軸を設定し現実の時間から離れる技術も創られた。しかし音は時間に従って物語展開されるというクラシック専売特許のような技術は皮肉にも彼らが発展させたサイエンスによってもろく打ち崩された。
音を扱う≒mEmORY操作になったのだ。そこに実感できるリアリティとしての時間は希薄だ。クラシックの専売技術は通用しない。新たなパラダイムでの物語を展開する感覚と技術が必要なのだ。クラシックが絶望に陥るとともにすがるようにすり寄って行ったのが彼らとは全く違う時間を扱う技術と違うパラダイムで物語を展開する民族音楽の膝元だった。
しかし、それは根本的な解決では無い、ただのその場しのぎにしか過ぎなかった。民族音楽にしても状況は同じである。結局 Memory 操作から逃れる事はできない。エレクトロニカは構造的には伝統音楽と比べるととても単純なものだ。だが、彼らはクラシックの人間には理解できない「別の」物語を語るだけだ。

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