Monday, November 21, 2005

サンプリング

テープ式ループの製作、それはサンプリングという現象を理解する為の一つのセラピーのようなものなのかもしれない。デジタルメモリという概念的なものではない、テープというアナロジーな磁性体にサウンドの情報が直接的に或る意味視覚的に刻み付けられてゆく。そしてそのテープ上のどこにもアクセス可能である(デジタル的なインデックスなどは無いが。。。)、というサンプリング(採集)の一番基本的な感覚を肉体感覚として追試できる。
テープの長さが時間を表している。テープが時間を切り取る。Max/Msp や SC などで一瞬でできるサンプリングという行為が感覚を麻痺させ、そしてあるとき1.5 Ghz の処理能力を持った機械の中で行われている事に突然リアリティを感じなくなる。これはサンプリングという行為を取り戻す為のリハビリテーションのようなものであり、同時に自らの感覚を1.5Ghz 以上に拡大する為のプロセスである。

Saturday, November 19, 2005

Raag と Taal のベクトル

Raag は抽象イメージとしての感情(ラサ)を表現目的とする。あくまで、Raag は抽象イメージとしての感情の表出をその即興システムの力をかりて行うのである。感情(くどいようだが、抽象的なイメージでの感情であり、情緒性や情動とは異なる)に還元してゆくのである。
Taal の表現とはいったいなんなのか、非常に分かりづらい。しかし、Raag がヨーガ的な奥行きを求めるのに対して、知的好奇心などの力によってリズムを抽象化、複雑化、システム化していったような感はある。いずれにせよ、Raag と同じような意味での感情なるものは Taal には存在しないようにみえる。ただ、Taal というシステム(概念)のみを複雑化させてきた。根本にあるシステムのイメージには輪や輪廻や時間や螺旋状に反復(無限の単純化)、、等々のきわめて扱いづらいテーマが存在している。しかし、実際の演奏としての Taal は根本のイメージを表出してゆくと言うよりも寧ろそのイメージをもとにシステム化された抽象的なパターンを組み合わせた物である。
このように殆ど重なり合わない二つの概念がくみあわされ、しかも即興で音楽として存在し得るのは不思議な事である。

Friday, November 18, 2005

Tuesday, November 15, 2005

システムの裏にあるもの

 ヒンドゥスタニー音楽の高度に構築された即興システムを裏打ちしているものがある。それはラーガやターラが乖離しないようにそれぞれを包むようにバインドしている。或は、ラーガやターラという構造物が立っている地面のようなものなのかもしれない。
 ラーガとターラは構造物としてみた時、全く性質を異とするものである。向かってゆく方向はもとより、深い部分にある抽象イメージさえもほぼ全く重なり合う部分が無いようにさえみえる。そしてラーガでは旋律のリズム部分、ターラではそのフレーズテクニックの部分が、双方とも非常に浅いテクニカルな部分での共通性はあり、そのおかげで即興がぎりぎり成り立っている訳である。
 ラーガ(ターラを伴うガットを含めて)が圧倒的な深みをもって演奏される時、ラーガとターラの双方は前述の理論上での共通部分でのみ音楽を共有しているとは到底思えない。理論が作る即興システムとは別のところで共有する何かが必ず存在している。
 その一つとして今まで通奏低音という存在を提唱してきた。ターラにもピッチが存在しているという事実、そしてターラのポテンシャルや極端に単純化したときに見えてくるターラの性から、通奏音という存在がターラの核に有ることは疑う余地もない。寧ろ通奏音からターラが産まれたとさえ感じることもある。そこまで根元にもぐってようやく再びターラはラーガと同じ物を共有する。
 さて、もう一つ(更にまだあるとは思うが)何かが存在している気がする。通奏音がそのルーツや方向の共有に作用しているのに対して、それは特に交感というものに大きく影響を及ぼしているようだ。それも、通奏音のように具体的なサウンドに還元できる可能性も考えてみたい。

Friday, November 11, 2005

脳の軋みから何かが生じ、そのこぼれ落ちた物を拾い上げる。放射性物質が分裂しながら放射線を出すようなものだ。
狭間に生じる何か。状態AからBへと移行する瞬間、AとBが同時に存在する。そのモアレは脳の軋みから生じる。

存在

あまり聴かないが存在するというだけでよい音楽がある。
それほど好んで(好むというのは往々にして情緒的な行動である)頻繁に聴く訳ではないが、その音楽が存在しそしてその存在を知っておりその音楽に想いを馳せる事ができる、そういう空気を伝わる音から離れた概念的な音楽もある。そういう音楽が存在するというだけで私は満足だ。
「もはや存在せず、恐らく決して存在しなかったし、これからも多分永久に存在しないであろうが、それについて正確な観念を持つことは、我々の現在の状態をよく判断するために必要であろうような一つの状態をよく知る」(ジャン・ジャック・ルソー)

Monday, November 07, 2005

創造性

「欠落」や構造が移り変わるときの「錯綜」など、脳が揺さぶられる状況に創造性が存在している。
プログラムやコンピュータそのものの Bug を作品化してゆくアーティストがいるが、コンピュータなりのキャパシティを超えた揺さぶりを起こしている状態に人間の脳が揺さぶられている状態を重ね合わせているのだろうか。

Sunday, November 06, 2005

リアリティ

そのままの音にリアリティを感じない。が、その音が例えばラジオから流れたときに、はっとする。壊れかけのラジオからふと流れたベートーヴェンのシンフォニーに心を持って行かれた体験が原初体験としてある。が、その後実際に同じ曲の演奏を見る機会があったが、がっかりしてしまった。人が音に感じるリアリティーとは音の奇麗さや忠実再現性とは全く関係のないところに存在する可能性がある。欠落した情報を補おうとする人間の脳ゆえの特異な現象かもしれないが。その欠落した情報を補おうとする重力を創造性と呼ぶ事ができるかもしれない。

Saturday, October 29, 2005

構造と構造の狭間

カットとカット[ scene と scene (シーンとシーン)] の切り替わるところに映画の命が吹き込まれる(黒澤明/1996?年北野武との対談にて)。
(音楽においてだけではなく)ある一定の構造と次の構造の移り変わる刹那、においてのみ存在する命がある。
構造と構造の狭間、に命が吹き込まれるとしたら、構造を変化させることそのこと自体を目的としたサウンド(そのものは何ら意味性や構造性を持たない存在であっても)も存在している。と思う。

他者(事象、事物を含む)との関係性

他者といかにして関わってゆくか。それはその人の生成するスタイルや生成するものに非常にクリティカルな影響を与える。他者と如何に存在してゆくかは如何にして受け入れてゆくか、どの程度受け入れるのか、どの次元までを見据えるのか、更には世界と如何に関係を持つかいまで広がってゆく。音楽も所詮他者とどうかかわって行くかなのである。

Thursday, October 27, 2005

部品について

機材を製作していると個々の部品が音を作っている気がしてくる。パーツが演奏する。もちろん楽譜を演奏する訳が無いが、彼らなりのやりかたで演奏をしているのである。演奏家、特にクラシックの演奏家は楽譜をインプットし演奏をアウトプットする。演奏家内部の処理がその人を決定づける。それと大差はない。サウンドをインプットし、個々のパーツなりの処理をし、アウトプットする。私はただ、素材を入れるという動作をするだけである。パーツにも命があるなどとたわ事を言うつもりは全くないが、ただ、彼らにも演奏と同じようにサウンドを処理する能力があるという事実だけは忘れないでいたい。

Wednesday, October 26, 2005

日常をテーマとする

日常◁をテーマとする。日常に△を見る。音楽には、日常から離れたところに連れていく性質を持っていると思う。日常をテーマとする事で非日常に連れていく方向に力が作用するとしたら、それはなんだろう、危険な匂いもする。日常からスタートする、その事は向かって行く方向にどう作用するのだろうか。音楽が非日常を目的とするなら、音楽的手法を用いて日常からスタートするのは、どうもよろしくないという気がする。もし日常からスタートするなら非音楽的な道をとるか、あるいは音楽的な道を通り非日常を目的としない、ような方法があるのではないか、と思う事があった。

Tuesday, October 11, 2005

記号としての Tabla bol

タブラのサウンドは口唱歌となって記号へと還元されてゆく。最小単位の記号としてそれぞれの音色を区別する記号(dha.. dhin.. tin.. tete.. etc.)が選ばれる。その最小単位(以下一次記号と略す)を組み合わせる事でより高次の記号群を扱う事になる。例えば母音と子音を組み合わせて単語を形作る一般的な言語のように。
最小単位の記号を組み合わせる事でできる記号群(言語で単語のような存在。以下二次記号と略す)は無数に存在し、それぞれが独自のサウンドのニュアンスを持ち、そしてその固有のニュアンスを保った状態でのヴァリエーションを持つ。具体的にはその記号群は Q'aida や Rela などのカテゴリーに分類されている。
さらにその二次記号は(印度音楽上の)文法に則って自由に組み合わされ(単語を組み合わせて文を作るように)より高次の記号(三次記号と略す)となる。二次記号を組織し参じ記号を生成する際に用いられる文法がいわゆる印度音楽でのリズム理論ターラと呼ばれる文法である。
また、それ以外にも俳句や短歌などに相当するかのような Tukra.. chakkardar.. 等の種類の三次記号も存在する。それはターラ文法に則った文というよりもむしろ記号の数や歯切れの良さ、要素を組み合わせる事でできる美、などを決まった枠の中にインストールしたもので、文法を離れて存在する。

タブラというのは結局如何に記号を組み合わせて魅力的な文を作ってゆくのか、というポイントに集約される。

lost chirdren

私たちには失ったものに対する記憶が残っているのか。憧れか。失った感覚はテクノロジーでは取り戻されるはずは無い。ニューエイジ思想とは失ったものを取り戻そうとするものに他ならないのか。ニューエイジに感じるある種の嫌悪感、そして畏怖感。ニューエイジ思想によってしか失った感覚は翻訳され得ないのか。失ったものはテクノロジーで得るものよりも価値があったように感じる。だからこそ、失ったものに対する挑戦はやめてはならない。私たちは今手にあるすべてのものを総動員して過去の記憶と戦う。
三角形を取り戻すのは過去からのみではない。未来からも三角形を取り戻す事ができるはずだ。

Friday, September 30, 2005

変化について

音楽が音素の「変化」を要素として成り立っているとしたら、最小限の変化もあり得るわけで、それで音楽が成立することもある訳です。それがミニマルミュージックの成立条件としてあるわけです。音素の変化としてはもちろん無音状態も含まれる訳です。

北印度音楽について

音楽に対する時間感覚が問題となってくると思う。

Monday, September 19, 2005

____________________10/Mar/05

サウンドを音楽の構成要素とした時、階層構造がうかびあがる。しかしそれは”サウンドは音楽に従属する”といったような力関係には置き換えられない。むしろサウンドは音楽の構成要素でありながら、全体を握り 音楽>サウンド というよりも 音楽⇄サウンド といった入れ子の状態になる。
西洋音楽の構造>サウンド・ヒエラルキーを超えたところに東の音楽は在る。構造は音楽でありサウンドもまた音楽であり、構造はサウンドである。構造とサウンドが常に100%の力で互角に同時に存在する、それがヒンドゥスタニー音楽である。
そういう音楽には西洋音楽の言う”積み重ねとしての時間”はない。ある意味非常に断片的サンプラ−的である。時間の積み重ねをもちつつ、それを無視して様々な瞬間にアクセスできる。それは各瞬間のサウンドがそれ相応の力を持たないと実現できない。それぞれの要素が輝きを持たないと断片と化した瞬間は脳に到達しない。
インド音楽がもつ一つの価値観はここに有る。どこからでもいつからでも戻って来れる。だからといってただ時間経過を無視してとりとめもなく実行されるわけでは無く、そこには大きな構造も有る。時間とともに積み上げてゆく形式の構造では無く。。。。

____________________12/Jan/04

いつでも逸脱できるし、いつでも戻ってくることができる。繋がっていてそれでいてその瞬間瞬間に現あらわれる何か。西洋音楽に較べて時間感覚が長過ぎるのかもしれない。ガンジャの時にキーがあらわれる。断片とは心の中のものか。La monte young の eternal music の様に永遠に存在し、そこに随意随時にチューニングを合わすことで断片を心の中に生じてゆく。断片には頭の奥底をくすぐるなんらかのはたらきがある。

Sunday, September 18, 2005

____________________28/11/04

魔術師と手品師が居る。手品師は人々をアッと言わせ、圧倒し、笑いを導いて楽しませ、ハラハラさせたりもする。場を解放し喜びに満ちあふれたものにする。魔術師は人をけむに巻いたり首をかしげさせたり、納得できない感覚を心においていったり、時にその魔術が人に気付かれなかったり。。。する。属性は魔術師らしい。

____________________21/11/04

「聴く」とは創造的な行為である。音が空気の振動であり、ある秩序を持った振動が鼓膜等の感覚器官に到達した結果、人間の内側に形成されるもの、それが音楽である。音楽とは聴いた人の内側に形成される現象である。「誰も居ない部屋でベートーベンが鳴っていたとしても、そこに音楽はない。音楽は聴いた人の内側に形成される事象である。」
無音も含めいかなる音も、聴いた人の中で「音楽」として形成されたら、それは音楽である。

____________________31/8/04

何処が始まりでも終わりでもない。何処からも始まり何処からも交わる。決まった部分は最小限におかれているけれど、明確なフォームやフォーマットのようなものが見えるような気がする。いくつものトラックがそれぞれを控え目に主張しながら緩くぶつかりたまに不協しそれでもお互いを排除せずに、時間を追う。

あらかじめ決められた構造を時間軸上に配置された音楽はとても強い意志を持ち、人をある方向に薙ぎ倒す_のかもしれない。緩やかに形成され、最小限の構造を持った音響は強い意志は持たないだろうけれど、人々の隙間に入り込む柔軟性は持つのではないかと思う。人と音とのかかわりあいが音を突き抜けて思考を様々な方向にとばす。自分と自分を取り巻くものの関係性を再確認する。

"音楽"は"人_音楽" のかかわり方を限定してしまう。強すぎる、場合がある「音楽」は。

____________________21/8/04

通奏音の上でシンプルなラハラが如何に展開されゆくか、装飾されゆくか、いや寧ろ音響的視点から如何に自分を納得させる音色の重なりを実現するか、その手法として自分はラハラの様々な速度、断片、を配置して緩やかな立体音響を創ろうとしていた。そこに美意識が向いていた。技術的には様々なものが必要だろうと思う。でも、そこに行ったと言うことが何か自分というものを深めていくことの示唆となり得ると思う。

__________________23/07/04(3)

ヒト
↓削ぎ落として
double spiral

なのか

__________________23/07/04(2)

削ぎ落とすという行為。全ての余計なもの、理論や音楽と言う文脈の中のしがらみやこびりついている臭いを削ぎ落として知識や記憶も、自分についている癖も全部落として残ったものは一本の線の時がある。最小の反復が残る時がある。
でもその一本の線は太さもまちまちで時によじれ、ピンと張り、その表面には無数の紋様が彫り込まれ、その総面積は平面や立体に劣らない最小の反復でありながら一つとして同じ反復がない。想像力の無限の飛翔を持った一本の線。時にある部分はほつれ、枝が出ているかの様に見える。
maximum にむかう流れに反して minimum に向かって行く力がはたらく。その舵取りに自分がたちあらわれる。

__________________23/07/04

drone と反復が互いに干渉しあう→重なりあう処は?
波が重層に

drone の minimal性
minimum の minimal 反復が drone


Drone と反復が手を握る処は?
通奏音の反復性�反復音の通奏性

Saturday, September 17, 2005

switch on

本日 9/16. 2005 , switch on // しました。