Tuesday, November 15, 2005

システムの裏にあるもの

 ヒンドゥスタニー音楽の高度に構築された即興システムを裏打ちしているものがある。それはラーガやターラが乖離しないようにそれぞれを包むようにバインドしている。或は、ラーガやターラという構造物が立っている地面のようなものなのかもしれない。
 ラーガとターラは構造物としてみた時、全く性質を異とするものである。向かってゆく方向はもとより、深い部分にある抽象イメージさえもほぼ全く重なり合う部分が無いようにさえみえる。そしてラーガでは旋律のリズム部分、ターラではそのフレーズテクニックの部分が、双方とも非常に浅いテクニカルな部分での共通性はあり、そのおかげで即興がぎりぎり成り立っている訳である。
 ラーガ(ターラを伴うガットを含めて)が圧倒的な深みをもって演奏される時、ラーガとターラの双方は前述の理論上での共通部分でのみ音楽を共有しているとは到底思えない。理論が作る即興システムとは別のところで共有する何かが必ず存在している。
 その一つとして今まで通奏低音という存在を提唱してきた。ターラにもピッチが存在しているという事実、そしてターラのポテンシャルや極端に単純化したときに見えてくるターラの性から、通奏音という存在がターラの核に有ることは疑う余地もない。寧ろ通奏音からターラが産まれたとさえ感じることもある。そこまで根元にもぐってようやく再びターラはラーガと同じ物を共有する。
 さて、もう一つ(更にまだあるとは思うが)何かが存在している気がする。通奏音がそのルーツや方向の共有に作用しているのに対して、それは特に交感というものに大きく影響を及ぼしているようだ。それも、通奏音のように具体的なサウンドに還元できる可能性も考えてみたい。

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