Tuesday, July 29, 2008

要はどこまで、どの程度まで自分の出す音に責任をもてるか、ということにフォーカスしている.
残念ながら、 max/msp や SC で出す音に私は責任を持てないかもしれないが、それはそのメカニズムが私の知らないところにあるからであるという消極的要因に負うところが大きい.
私はフィールドの音に対しても責任を持てないかもしれないが、それも同様にそれらはあまりにも私の外にあるからであるという消極的要因に負うところがある.

機械を制作し、楽器の演奏をよりどころとするのも、それが私に背負う事のできる可能性がある数少ない方法の1つだからである、という消極的な要素が私の内眼筋を制御している様だ.

verbose

冗長性をはぶく過程で創造性は大きな力を発揮する.
プログラミングに創造性が関わるとき、段階としてはまずここに効いてくる.

if

機械に人が操作しやすいような(人の操作を意識するような、人のような) IF は必要なのか?

Monday, July 28, 2008

scope

非常に単純な事なのだが、自分が責任を持てる範囲内でモノをつくる、というプリンシパルが自分を拡大しようとする揚力となっている.

Sunday, April 15, 2007

情報の国

架空の情報上の国があるとする。そこでも音楽が作られる。シルクロードを伝わって、また民族の様々な美意識で取捨選択されて時間とともに音楽が融合されてきた訳だが、この国でも同じように民族それぞれのアルゴリズムで情報の音楽をプロセスしてゆく。そういう国を想像してみた。

Saturday, March 31, 2007

improvisation

即興は人間の聖域となりうるか -> false

Monday, March 05, 2007

最後に決定を下すのは自分の感性だと知っているからこそ、感性の入る余地ない領域を手にしておく必要があると考える。

Wednesday, February 28, 2007

近未来

もしあらゆる音楽の音符やパターンがデータ化され、思いついた旋律から即座にさまざまな音楽パターンを生成できたり、そういう時が来たとき(近々でしょうが)、そのときになって初めてようやく人は機械と音楽の関係を相対化できるようになるのではないか、と思う。
自動作曲に社会的な意味があるとすれば、そういうことなのかも知れません。

しかしまあ、そういう事以外にもいろいろなことを面白がるというのは大事でしょう。

Hacking

現在の音楽において Hacking という要素は非常に大事なように思われる。

Sunday, January 28, 2007

dejav

機械から発せられる音、人の行為による音楽とを比較する。

”音楽とは生音である。音楽は演奏がよい。機械の音はどんなに機械の能力が上がったとしても人による音楽にはかなわない。原音至上。”

まるで以前の民族音楽と西洋クラシックの様だ。以前見たような光景に思える。いまだ何の疑いもなく、人々は機械の音と人間の音楽とを同列に扱っている。明らかに機械の音は、人々の不理解により辱められている。機械は音楽のような形に自らの表現を落とす必要はない。

Wednesday, September 06, 2006

能動性から受動性へ

 音楽を聴くという行為は常々変化している。現在巷には様々な音があふれる。人々は様々な音に囲まれている。「音楽を聴く」という行為は一昔前では能動的な行為であったに違いない。しかし、現在の「音楽を聴く」という行為の意味は必ずしもそうとは限らないようである。町では店の拡声器から音楽やアナウンス、メロディが絶え間なく流れ、しかも一つではなく場所によっては同時に何十と「耳にはいる」訳である。飲食店ではBGMが流され、人ごみでは語り声が音楽の様に流れ、携帯電話の着信メロディが同時にいくつも聞こえる。
 人々は音に囲まれている。どうやら「音楽を聴く」という行為は「音楽が聴こえる」という意味を内包するようになったようだ。しかもその意味合いがどんどんと強くなってゆく。iPodやmp3プレーヤーによる大量の音楽の一括管理は「音楽が聴こえる」という精神で「音楽を聴く」ことと無縁ではあるまい。音楽は様々なやりかたで人々の脳に届くようになった。昔より自由になった。
 だが、自由と危険は背中合わせだ。自由のみを謳歌すると某国のようなド壷にはまるだろう。

Saturday, August 12, 2006

エレクトロニクスをツールとする

エレクトロニクスをツールとする事は少なくとも音楽に於いてはもう終わっても良いのではないか。エレクトロニクスに如何にしゃべってもらうのか、を考え彼らのしゃべり方を受け入れ彼らと共にしゃべる、と70年代に提唱されていた。が、そのパワーが圧倒的に上がった現在でもそれは受け入れられていないように見受けられる。寧ろ、昔に比べて複雑でブラックボックス化しているが故にそれができづらくなっている状況のようだ。

白塗り

現代音楽家の好んで使用するホワイトやピンクノイズ、正弦、余弦派等のサウンドは舞踏に於ける白塗りの様なものなのだろう。

>暗黒舞踏の白塗りには「かぶきの白塗りの原理に基づく発想」が働いていると考える。つまり、白塗りはかぶきそれの仮面性を全身におよぼすことによって、「肉体否定の一つの表現」「醜悪な肉体の醜悪さの一つの表現」となる。(郡司正勝)

つまり自然界には存在しないが自然界の音を構成している最小の要素であり抽象であるそれらの音は「肉体否定の一つの表現」としての白塗りのように自然の音を否定し、存在しながらも恣意をはなれたあたかも純粋抽象的な存在として振る舞うことができる。

形式的な取扱いが楽な故に乱用される事は舞踏の白塗りと同じであるが。

Wednesday, August 02, 2006

インド文化と科学の関係

ゼロという概念を創りだした民族だと言われる。アラビア数字も西洋にアラビア経由で伝わったのでそう呼ばれるが、源はインドである。西洋に現在のような数字の概念が伝わったのは早くとも10C頃だと言われているようだが、その後西洋は猛烈な速さでそれを吸収し発展させ自然界に概念を拡大した。その過程で急先鋒として産まれてきたのがカメラオブスキュアや遠近法、立体絵画技法、平均率、フーガ、カノン、調性であったり、云々であったり、文化の形成に数学の概念がかなり直接的に関与している。
だがその数学の概念の基礎を作り出したといわれるインド文化にその痕跡が残っていないのは何故か。いや、或は西洋のように直接的な形で関わってゆくのではなく、また別の相で存在しているのだろうか。インドと科学の関係を洗い出そうと思ったきっかけである。

Wednesday, July 05, 2006

原音忠実という指向

 オーディオにおける原音忠実再現という考え方はどこからくるのだろうか。現代のオーディオ環境においては原音は存在してもそれを忠実に再現するという意義は無い。現在人々にとって耳にする音楽とは90%以上の割合で編集されたものを指す。原音はリアルなものであるが、オーディオ再生というところにおいてはリアリティが無いのである。イデオロギーに方向付けされる時代は終わった。あるのはスーパーフラットな個々の嗜好に基づいた無数の価値観のみなのである。ただ、一方にその反動として原音回帰、生音回帰とみられるムーブメントが近年みられることも確かである。

原音忠実再現を志向する人々には昔からのクラシックファンが多数を占めるようだ。

 エレクトロニクスは自然の一部なのである。エレクトロニクスの力を音楽に参加させる事とはエレクトロニクスの演奏が加わると言う事である。エレクトロニクスには彼らなりの演奏の仕方、しゃべり方が有る。原音忠実再現という楽譜のみをエレクトロニクスに演奏させるのはそのあり方としてどうなのだろうか。エレクトロニクスの力を借りてでしか音楽に触れる事ができない現在でこそ、その関係を新たに考えてゆくべきだろう。
 エレクトロニクスは鈴虫や蛍と同じように自然として今身の回りに存在し、浄瑠璃やお神楽、民謡と同じように身の回りで音を発する。現代の音楽家にとってもはや日本文化に戻ると言う事は伝統音楽に戻る事ではない。それはエキゾチシズムであり自分の文化であるという錯覚である。私はエレクトロニクスを回帰してゆく自分の文化として提唱する。

Tuesday, June 06, 2006

表出する行為

世界観を表出するという行為が対象になるが、その媒体がシンフォニーである場合もあればラーガである場合もある。サウンドそのものである場合もあればサウンドを生成するシステムという場合もある。1bit である場合もあれば歌である場合もある。要はそれだけなのだが、その行為を現代芸術という摩訶不思議な領域にプロットしようとすると、非常に込み入った話になる。まあただ世界観を表出するという行為はおそらく非常に原初的な生命活動の一部であろうから、人々が取捨選択して芸術という領域に持ってくるのだろう。

Monday, June 05, 2006

難解な中に

コンセプトの展開をBという値を用いて行うこと。Bは最大公約数である必要はない。一人以上で行うならば最小公倍数である必要がある。以上。

Sunday, May 21, 2006

虚像

S氏の作品が立体的な変貌を遂げた。やや平面的な昨年から前に張り出した立体的な要素と重力の要素が立ち現れてきた。それとともに作品に対する我々の目線も作品そのものから白壁に投影される陰に移って行った。作品そのものに対峙すると細部、その作品の構成要素にエネルギーが注がれる。彼のように廃材を使う作品はなおさらだ。しかし、陰は明暗質感はあるとはいえ均一な存在でありそれゆえ、その陰全体と対峙する事となる。私は実物の写像を通して初めて実物の全体と対峙する事ができた。

陰は実物の写像であり、実物の写像が陰である。別のものでありまた同じものである。ラーガの写像はシュルティであり、シュルティはラーガの写像である。別のものであると同時に同じものである。そういうサウンドをこの作品は受け入れてくれるだろうか。

Thursday, May 11, 2006

脱 記憶デバイス 操作

何の事は無い、音を扱う≒ Memory 操作 に感覚が変容しただけなのだ。100年前は 音を扱う≒時間を扱う であり、全てはそれに基づいて設計されていただけなのだ。西洋クラシックにおいては音を扱うということは時間軸に沿って物語を創る事でありそれゆえ記譜が制作をコンセプト面からも強烈に支えてきた。音を扱う事は時間の中で行われていたのだからこそ、ソルフェージュ等を駆使し頭の中で仮想的な時間軸を設定し現実の時間から離れる技術も創られた。しかし音は時間に従って物語展開されるというクラシック専売特許のような技術は皮肉にも彼らが発展させたサイエンスによってもろく打ち崩された。
音を扱う≒mEmORY操作になったのだ。そこに実感できるリアリティとしての時間は希薄だ。クラシックの専売技術は通用しない。新たなパラダイムでの物語を展開する感覚と技術が必要なのだ。クラシックが絶望に陥るとともにすがるようにすり寄って行ったのが彼らとは全く違う時間を扱う技術と違うパラダイムで物語を展開する民族音楽の膝元だった。
しかし、それは根本的な解決では無い、ただのその場しのぎにしか過ぎなかった。民族音楽にしても状況は同じである。結局 Memory 操作から逃れる事はできない。エレクトロニカは構造的には伝統音楽と比べるととても単純なものだ。だが、彼らはクラシックの人間には理解できない「別の」物語を語るだけだ。

Sunday, May 07, 2006

untitled

人が音を聴くという行為は客観的な事象だという事ができるだろう。なぜならばおそらく大多数の人々の知覚器官は生理的にほぼ同じ機能を持つからである。だが、人が音楽を聴くという行為は1%のよどみもない主観的な事象である。なぜなら音楽はその人の心の中に、心が形作るものであるからだ。心はその人の過去に根ざした経験が形作る。誰一人として全く同じ過去や経験を持たないのと同じように、たとえ全く同じ状況で同じ音を聞く場に居合わせたとしても、誰一人として同じ音楽を聴く事はできない。
音楽家は音楽が人々の主観から離れては存在し得ないということを身をもって感じているし、納得もしている。しかし、彼らは普遍的な音楽を求め彷徨う。主観も極まれば普遍を獲得するかもしれないという希望と絶望をもってしてドンキホーテのように疾走する。
その矛盾、心の中の Bug も音楽なのではないか。と思う。